随処に主と作れば、立処皆な真なり
2025年04月09日
先日ネットを検索していて巡り会った言葉
「随処に主と作れば、立処皆な真なり」
これは臨済宗の臨済録に書かれている言葉です。
この意味が知りたくて、臨済宗の山田無文という僧侶の書いた本を手に入れて読んでみました。
まず私は「随処に主と作れば」という言葉から、「どこにいても自分をしっかり保っていれば」いいのだなと思ってしまいました。
しかしこれは間違っており山田無文さんの言うところでは、主には自我があってはならず、その自我のない透明な心で世界を受け入れることがその人の見るものを真実に変えるそうです。
確かに自分をしっかり保てなどと考えるとその心にしっかり保つためのフィルターを掛けることになるので、それで真実は見えないだろう。
心を透明にするには自我をなくさなくてはいけない、そうすると自分と他人の区別のない心になるそうだ。以前何かの本で見た、一つの茎に多くのカボチャが繋がった絵を思い出す。
これは私にとってはかなり難しい、とうてい出来そうにない。
しかし自分にパワーを得たい、運気をあげたい、精神的レベルをあげたいなどと思ってその心で周囲を見たとしてもそこに真はないということはわかる。
しかし、しかし、そこまで来て真実を知りたいという自我はどうすればよいのか……これは非常に悩ましく難しいところだ。