考察 精神性・宗教
随処に主と作れば、立処皆な真なり
「随処に主と作れば、立処皆な真なり」 先日、ネットを検索していて、この言葉に出会った。
臨済宗の開祖の語録である『臨済録』に記されている言葉だ。
意味が知りたくて、臨済宗の僧侶・山田無文の著作を手に入れて読んでみた。
最初、私はこの言葉を「どこにいても自分をしっかり保っていればいい」という意味だと受け取ってしまった。
だが、それは誤りだった。
山田無文の解説によると、ここで言う「主」には自我があってはならないという。
自我をなくした透明な心で世界を受け入れるからこそ、その人の見るものが真実に変わるのだ、と。
確かに、「自分をしっかり保とう」と意識すること自体が、心に防衛のフィルターを掛けることになる。
それでは真実など見えるはずがない。
心を透明にするために、自我をなくす。そうすれば、自分と他人の区別のない心になれるという。
その解説を読んだとき、以前どこかの本で目にした「一つの茎に、たくさんのカボチャが繋がっている絵」が脳裏をよぎった。
正直に言って、これは私にとって途方もなく難しい。とうてい出来そうにない境地だ。
けれども、「パワーを得たい」「運気を上げたい」「精神レベルを高めたい」といった下心(自我)を持って周囲を見ているうちは、そこに真実など現れないということだけは、痛いほどよく分かる。
――だとするならば、最後に残った「真実を知りたい」というこの私の自我(願い)は、一体どうすればよいのだろうか。
ぐるぐると巡る問いの答えは、いまだ見つからない。
非常に悩ましく、そして深い、贅沢な難問にぶつかっている。