よんなーハウス

すべての生物の意識は空間と時間を超越して繋がっている

茂木健一郎氏がYouTubeで「一つの意識」という仮説を唱えられていました。

それが私が以前ブログに書いた

シュタイナーの言う魂と私のイメージにある魂の違い

で述べた魂に関する私の考え方になんか似ている気がして、受動意識仮説から私なりに説を組み立てて、AI相手に壁打ちしてレポートにまとめてもらいました。


レポート:受動意識仮説から導かれる「一つの意識」への考察

―情報の因果律における個の在り方と社会への波紋―

1. はじめに:受動意識仮説の再定義

本レポートでは、前野隆司教授らが提唱する「受動意識仮説」を基礎的な立脚点とする。本仮説において、意識とは自律的な実行主体ではなく、脳内の無数のニューラルモジュール(以下「無意識のこびとたち」)が行った処理結果を、後付けで受け取る「受動的な受光器」あるいは「エピソード記憶のための報告装置」であるとされる。 本稿の目的は、この仮説を社会的な相互作用に拡張し、個々の意識を超越した「一つの意識」という概念の妥当性と、その中での個人の実践的意義について論じることにある。

2. 意識の相互作用と情報の連鎖

受動意識仮説に基づけば、個人の思考や行動の「きっかけ(入力)」は、外部環境からの物理刺激や他者の行動に依存する。他者の「無意識のこびとたち」が出力した言語や行動は、私の脳にとっての入力となり、私の「こびとたち」を駆動させる。

この視点に立つと、社会とは独立した意識の集合体ではなく、巨大な情報の因果律が編み上げたネットワークとして捉え直すことができる。私の意識が他者を動かし、他者の反応が再び私を規定するという再帰的なプロセスは、個体間の境界線を情報学的に曖昧にするものである。

3. 「一つの意識」という仮説

個々の意識が相互に影響し合い、時間的・空間的な制約を超えて情報のやり取りを行っているとするならば、そこには「一つの巨大な情報の潮流」が存在すると仮定できる。

  • 空間と時間の超越: 過去の哲学者の記述が現代の読者の脳内モジュールを刺激するように、情報の波紋は物理的な生死や距離を超えて伝播する。
  • 「海と波」のメタファー: 意識は個別に独立して存在するのではなく、巨大な「一つの流れ(海)」の中に生じる一時的な「渦(波)」のようなものである。個々の波は形態が異なるが、その根底にある水(情報の因果律)は共有されている。

この「一つの意識」は、特定の誰かがコントロールできる対象ではなく、全生命・全情報の集積体としての「プロセスそのもの」を指す。

4. 実践的意義:行為ではなく「考え」への執着

「一つの意識」という巨大な流れに対し、個体としての人間は何をなし得るか。本考察において、以下の二点が重要である。

  1. 「使う」のではなく「影響を与える」: 一つの意識を道具として利用することは不可能である。個体ができることは、自らの活動を通じてその巨大な流れの中に「波紋」を投げ入れることのみである。
  2. アルゴリズムとしての「考え」の洗練: 受動意識仮説において、具体的な行為は自動処理の結果(出力)に過ぎない。したがって、個人の努力の焦点は、目に見える「行為」そのものではなく、その源泉となる「自分に対する問い」や「インプット」といった思考のアルゴリズム(考え)の純度を高めることに置かれるべきである。

シンプルな思想を数年、数十年と継続すること。その一貫した振動こそが、時空を超えた流れの中において不純物のない「良き波紋」となり、後世や他者の意識のきっかけ(トリガー)となり得るのである。

5. 結論

意識が受動的なものであるという前提は、一見すると人間の主体性を奪うように思われる。しかし、個々の意識が巨大な「一つの流れ」の一部であり、互いに影響を与え合う存在であると認識することは、個を孤立から解放し、広大な因果の連鎖へと再接続させる。 我々に残された自由とは、どのような問いを立て、どのような情報を自らに取り入れ、どのような考えを保持し続けるかという「入力と処理系の選択」にある。その静かな継続が、結果として「一つの意識」をより豊かに彩る波紋となるのである。


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