泡盛のこと(明治〜昭和初期)
2024年05月27日
琉球王国時代に泡盛は献上品として使われ首里にあった酒造所は琉球王国により管理されていました。
明治になり琉球王国から沖縄県となると泡盛酒造所は琉球王国の制限を受けずに多く造られるようになります。また当時行われた税制優遇の助けを借りて本土への輸出が増えて酒造所の数が1887年には前年の10倍にも増えました。
しかし税制優遇が次第に緩和され泡盛の本土への輸出量が減り1900年頃には泡盛の生産量は最小となります。
そこで一度は底を打った泡盛の生産量ですがその後に勃発した日露戦争の特需により生産量は最小から一気にそれまでの最大となります。
しかし戦争特需が終わり税制優遇も更に緩和されると酒造所は倒産が多くなりました。
すなわち日露戦争を挟んだ両端の1900年頃と1910年頃に当時の泡盛業界は打撃を受けたことになります。
ここで想像してみると泡盛業界は琉球王国時代に保護され酒造技術は発展したけれど明治時代にはそれまでの王国管理がなくなり、その技術(職人)は当時沖縄で一気に増えた酒造所に多く流れたと想像されます。
更に1900年頃の泡盛業の不振時には、酒造の技術を必要としていた九州本土に、それら技術(職人)は流れたのではないかと想像します。実際鹿児島で有名な黒瀬杜氏の方には当時沖縄から九州本土の酒造所に来ていた沖縄の職人より技術を学んだ人がいたようです。そして泡盛造りに使われていた黒麹もその頃から九州の焼酎造りに使われるようになったとか。
もうひとつの1920年頃の泡盛業不振時には首里から奄美に渡り酒造所を開いた方がいてそこが今の西平酒造となったようです。
このように琉球王国時代に培われた酒造技術はジワジワと県外に流出し、県外の酒造業ではその技術の上に更に研究を重ね良いお酒が造られるようになります。
それと相まって沖縄県内の酒造業への税制優遇はどんどん緩和されていき泡盛の県外輸出は減っていくことになりました。となると県内消費を増やさざるおえません…。
あと現在の泡盛は原材料にタイ米が使われることで有名なのですが、私はこれは戦後になってからの話かなと思っていたのですが昭和の初めにはすでに原材料費を抑えるためにシャム砕米が使われていたようです。
さて泡盛の県内消費を増やさなければいけないことと当時のヤンバルの共同売店の歴史を絡めていくとまた面白いのですが、それはまた別の機会に。