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ノロ制度で見かけた不思議な2点

2025年03月09日

ノロ制度

ノロ制度とは第二尚氏尚真王の時代に確立されたとされる琉球の宗教を担う制度です。

尚真王の時代に琉球の各地域にいた按司が首里に集められます。それに代わって(だと私は考えています。)ノロが各地域に配置されます。だから按司の居なくなった城趾には今でもノロが拝む御嶽や拝所が残っているのではないでしょうか。

按司の時代には武力で地域を支配していましたがそれをやめて、今度はノロ制度による新たな階級制度を地域に設け、それにより地域を支配しようとしたのではないでしょうか。これは私の素人考えですがそう現実から遠くないように思います。

第一の不思議な点

このノロ制度の歴史の中の疑問点として、琉球は1609年に薩摩の侵攻を受け与論島以北を薩摩藩に割譲されてしまいます。

この与論島以北の島々にもノロ制度がありました。

しかもそのノロ制度は薩摩藩の支配が続いた間も、ずっと残っているのですね。

これが第一の不思議な点です。

薩摩藩になったのだから薩摩本土のような文化風俗にすればよいのにと思うのですが、当時の琉球の朝貢相手として明と清がいて、薩摩がそれを重要視したから、それが出来なかったようです。

薩摩に攻められた琉球ですが、明や清に対しては、その後も琉球は奄美大島までを領土に持つ変わらない国なので貴国との朝貢は続けさせてくださいね。という感じですね。

薩摩(幕府)の琉球侵攻の主要目的は琉球の朝貢を通して明や清と交易することだったのでしょう。

だから薩摩(幕府)も琉球を完全に支配してしまうことは出来なかったのです。

その前の朝鮮出兵の件もありますし、薩摩(幕府)に支配された琉球など明は相手にしてくれないでしょう。すなわち朝貢は終わってしまいます。

だから薩摩(幕府)の目的を達成するためには琉球という国の存在がどうしても必要です。

琉球を攻めて完全に降伏させたのに、その国を支配することが出来ないというのは不思議な話ですが、そういう理由があったので奄美大島までは琉球の領土であるという外見を明や清に対して見せなければならなかった訳です。

それでノロ制度まで残す必要があるのかよくわからないのですが、何か事情があったのでしょうね。

琉球の文化風俗を残したまま与論島以北を薩摩が支配するにはノロ制度があったほうが有利だったのかもしれません。

ただそのノロ制度はやはり薩摩の支配影響を受けたり、徳之島の三平所のように琉球とは異なる進化を遂げたようです。

与論島以北にノロ制度を残した薩摩藩ですからあえて琉球国のノロ制度を廃止させることはしませんよね。

ただもし当時の琉球国がノロ制度を廃止させていたのなら、それにならって与論島以北のノロ制度もなくなっていたでしょう。

第二の不思議な点

沖縄には神の島と言われる島がいくつかあり、そのひとつに久高島があります。

久高島は小さな島ですが、島内に二人のノロがいて、12年に一度のイザイホーにより神人になった女性が多数おり、たくさんの年中行事が行われていました

琉球国のノロ制度をもっとも盛んに行っていた島ですが、そこには薩摩屋敷というものがあったのです。今も残るその跡地を見ると島の建物としては広くその周りには立派な石積みの塀がめぐらされていました。もちろん建物はもうありません。

ここで疑問です、何故神の島に薩摩の役人がいたのでしょうか?

これを理解するには当時の久高島の役割を理解する必要があります。

当時の久高島は薩摩向けの船を操作する海人の集まりだったようです。

薩摩の役人や薩摩に向かう琉球の偉い人の送迎、年貢の輸送、また緊急時の薩摩との連絡に使う船の乗組員に久高島の海人が使われていたと考えています。

そうすると薩摩にとってはとても重要な島ということになります。

朝貢相手の明や清に、琉球と薩摩の関係を知られないためには、その役割を是非に隠しておきたかった島でしょう。

そのためには島への人の出入りを監視する必要があります。

それで薩摩の役人が島に詰めていたのではないかというのが私の推測です。

久高島にある多数の年中行事は島の女性を島内にとどめるのに役だっただろうし、航海にでた男性も女性が島で毎日のように祈ってくれると考えると心強かっただろうし島に残したことにも安心したことでしょう。

でもそこには薩摩(幕府)や琉球の思惑が影響していたかもしれませんね。

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