平敷屋・友寄事件について考える
2024年05月27日
1700年代の琉球に平敷屋朝敏という和文学者がいまして
また同じ時代の琉球には三司官の蔡温という人もいまして、この人は先祖を中国の福建に持つ久米三十六姓の子孫で、平敷屋朝敏が和文学者だったのとは対照的に漢文学側の人でした。
まず平敷屋・友寄事件の結果が何であったのか? それは「平敷屋朝敏と友寄安乗を含む15名が処刑された」というとてもショッキングなものです。
しかし重大な事件にもかかわらず、その詳細や処刑にいたった経過など歴史資料としてほとんど残っていないということで、いまだにこの事件の真相を追いかけている人はいるようですが…記録がほぼ無いとのことでその真相はおそらく永遠の闇で終わるんじゃないかなと思います。
■まず平敷屋・友寄事件の前にあった気になる出来事一覧
1712年 首里城再建
1713年 尚敬王即位
1714年 将軍家継就任の慶賀使・尚敬王即位の謝恩使派遣
1716年 享保の改革(1716-1745)
1718年 将軍吉宗就任の慶賀使派遣
1719年 冊封使が来琉し、尚敬を王に封ずる
1728年 蔡温が三司官となる
1731年 薩摩から製陶の技術伝わる
1732年 享保の大飢饉
1734年 平敷屋・友寄事件
まず気になるのは1732年の「享保の大飢饉」ですが、当時は薩摩にすでにサツマイモが琉球を通じて入ってきており栽培もされていたようで米の不作の代わりにサツマイモを食すことで薩摩は無事飢饉を乗り切ったようで、飢饉から政情不安となり事件にいたった可能性は低そうです。
それから年表の1718年と1719年を見てわかるとおり、当時の琉球は日本と中国の両方と関係があり、琉球王がかわった時には江戸に謝恩師を派遣し中国からは冊封師を迎えたり、将軍が替われば慶賀使を江戸に派遣するということをしています。琉球はこれだけでも相当なお金を使ったことでしょう、その上1712年には首里城の再建も行っているので財政は逼迫していたのではないかと思います。
だから1728年に三司官になった蔡温が改革に乗り出したのは理解できることです。またノロ組織の弱体化のようなこともおこなっていました。これから当時は蔡温を良く思っていなかった人も多かったのではないかと想像できます。
ステレオタイプ的には平敷屋朝敏が和文学で蔡温が中国と関係の深い久米村出身ということをもって、平敷屋・友寄事件を「日本派 v.s. 中国派」の対立で考える人も多くいますが上の年表を見る限り私にはその背景は見えてきません。
ただ気になることはあります。史実なのか不明なのですが、当時の琉球王妃と平敷屋朝敏の仲が疑われ平敷屋朝敏は家屋を没収された、と書いてあるものもありました。
これがもし事実なら大変なことで、琉球王妃は琉球国の宗教(ノロ組織)のトップである聞得大君ですから、もし聞得大君と平敷屋朝敏が接近することで平敷屋朝敏が王妃(もしくはノロ組織)を利用して何かを企んでいたとしたら……また逆に王妃(ノロ組織)側が平敷屋朝敏を利用して何かを企んだとしたら……、まあそんなんだったら琉球王府は「蔡温 v.s. 平敷屋朝敏」という誰もが興味を示すステレオタイプな事件をでっちあげてでも隠したいですよね。そして事件の記録もすべて消し去りたい。政権転覆にノロが絡むという物語はさもありなんで、例えば第一尚氏はクーデターが起こったときに久高島のノロのところに居て慌てて帰ろうとしたけど途中に金丸のクーデターの話を聞いて海に飛び込んで亡くなったなんて話もあります。しかしこれはあくまで物語なわけで史実とは言えませんが。
それから事件の発端が、琉球にあった薩摩機関に王府批判を投書や落書きでおこなったという、処刑されるほどの重大事件の発端がそれ? というなんとも稚拙な話で。
それで15名も処刑されるなんてその他に重大な何かがなければ辻褄があわないです。
結局言えるのは
・何かがあって15名が処刑された
・しかし事件は歴史に残されていない、消し去られた
・いま事件の原因とされていることにはステレオタイプ的な対立構図なものが多い
おそらくこの事件の真相は永遠に闇の中だと思うのですが
もし推理を楽しみたいのなら
平敷屋と蔡温の他にノロや元ノロたちを登場人物に加えてみることをおすすめします。