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マインドフルネスに関する考察:曹洞宗の只管打坐との比較を通して

2025年06月08日

はじめに

近年、「マインドフルネス」という言葉が広く知られるようになりました。

これは仏教の瞑想を起源とし、特に認知行動療法などの医療分野で活用するために、宗教的な要素を排して体系化されたものとされています。

現在では医療現場に留まらず、企業研修などにも導入され、一般化しつつあります。

しかし、その起源である仏教の瞑想とは、具体的に何が異なるのでしょうか。

本稿では、マインドフルネスと曹洞宗の瞑想法「只管打坐(しかんたざ)」における「雑念」の扱い方を比較し、マインドフルネスの特性について考察します。

雑念へのアプローチの相違点

マインドフルネスと只管打坐の最も顕著な違いは、瞑想中に生じる雑念への対処法に見られます。

只管打坐における雑念の扱い

只管打坐では、雑念が生じてもそれに執着せず、ただ「放っておく」ことを基本とします。雑念を追いかけたり、そこから思考を発展させたりすることなく、自然に流れ去るに任せます。

マインドフルネスにおける雑念の扱い

一方、マインドフルネスでは、生じた雑念を無視するのではなく、価値判断を加えずに「観察」します。例えば「自分は今、〇〇と考えている」と客観的に認識することで、自身と思考との間に距離を置き、それを冷静に眺めます。この点が、いかなる雑念も静観し、ただ受け流す只管打坐とは明確に異なります。

瞑想の実践における注意点

瞑想の深化に伴い、幻覚や通常とは異なる知覚(禅宗で言う「魔境」)を体験することがあるとされています。

伝統的な仏教、例えば禅宗には、こうした現象に対する長い歴史と経験の蓄積があります。

臨済宗の「仏に会っては仏を殺せ」という言葉は、瞑想中に神仏のような尊い存在が現れたとしても、それは自らの内面が生み出した幻影に過ぎないため、執着してはならないという戒めを示唆しています。

これは、瞑想における危険性を乗り越えるための知恵と言えるでしょう。

マインドフルネスが、こうした伝統的な瞑想における注意点について、どのような見解を示しているかは、さらなる検討を要する課題です。

マインドフルネスの現代的応用と課題

マインドフルネスは、精神的な課題の原因となる特定の思考や感情を客観的に観察する手法として、特に精神医療の分野で効果を発揮するよう設計されていると考えられます。

その実践方法は「How to」として体系化されており、短期間で効果を実感しやすいという特徴があります。

この実用性と分かりやすさが、ビジネスとして成立し、広く普及した一因でしょう。

しかし、その手軽さには注意も必要です。

特に、指導者なしの自己流での実践は、誤った解釈や習慣が身につくリスクを伴います。

例えば、雑念を無理に消そうとすることで、かえって思考にとらわれてしまうといったケースが考えられます。

また、企業が従業員のリフレッシュや生産性向上を目的として一律に導入することに対しては、その有効性に懐疑的な見方もあります。

アンガーマネジメントや依存症の緩和など、明確な目的を持つ場合には有効である一方、瞑想という内省的な行為を組織的に管理することの是非は慎重に議論されるべきです。

結論

以上の考察から、マインドフルネスは仏教の瞑想に起源を持つものの、精神医療など現代社会の特定のニーズに応えるために分化・発展した、独自の方法論であることがわかります。

雑念を「観察」するその手法は、自らの感情や思考を客観視する上で有効な手段となり得ます。

しかしそれは、万能の解決策ではなく、あくまで特定の目的に特化したツールです。

その起源である仏教の瞑想との違いや、実践に伴う注意点を理解した上で、適切に活用することが重要と言えるでしょう。

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