本の世界

子どもの頃に夜空を見上げると今よりも星が多かった気がする。自分の目が悪くなったのだろうか。それとも、ただ空を見上げることを忘れていたのだろうか。夜の熱気はだいぶ収まっている。それでも熱帯夜。本をとって読んでみる。久しぶりだからか意外にはかどる。本の中の世界。
窓を少し開けると、湿り気を帯びた夜風とともに、どこからか虫の音が聞こえてくる。真夏の猛々しい蝉の声とは違う、細く澄んだ声。リーン、リーンと鳴くのは、あれは鈴虫だろうか。いつの間にか、季節は音もなくその役者を入れ替えているらしい。
本の活字を追う目の端に、網戸の向こうで揺れる葉が見える。昼間あれほど自己主張していた太陽の光を浴びた葉とは違う、月光に淡く照らされた物静かな表情をしている。遠くで救急車のサイレンが通り過ぎていく。誰かの「今」が、私の知らない場所で動いている。私の止まった時間を、容赦なく追い越していくように。
ページをめくる指先が、ふと止まる。物語の主人公が、遠い砂漠で星空を見上げている。きっと彼の見る星は、私が子どもの頃に見たような、降るほどに瞬く星なのだろう。私のこの部屋の窓から見える空は、街の明かりに白々とうすめられて、星の姿もまばらだ。
けれど、見えないだけで、星はそこにある。虫の声が闇の深さを教えるように、聞こえないだけで、様々な音が世界には満ちている。本の中の砂漠にも、この部屋の窓辺にも、同じ時間が流れ、同じ夜が訪れている。そう思うと、この小さな空間が、世界の果てまでつながっているような、そんな気がする瞬間がある。もちろん、ほんのひとときのことだけれど。
秋の夜長とはよく言ったもので、これから少しずつ、夜がその領域を広げていく。焦るな、と誰かの声がしても、心は勝手に走り出そうとする。わかっている。だからこそ、今はただ、一文字ずつ、一行ずつ、物語を味わうように。この静かな夜を、せめて今だけは、ゆっくりと味わっていたい。