祈りとエネルギー
沖縄にはウタキという祈りの場(聖地)がある。
その中のひとつ斎場御嶽(セーファウタキ)には日々多くの観光客が訪れる。
ときおり足を運ぶと、その度に雰囲気が変わることに気づく。
なぜだろうか。おそらく、訪れる人々がそこで「気」を落としたり、逆に持ち帰ったりしているからではないか。
この文章では、この気のことを「エネルギー」と呼ぶことにする。
このエネルギーには2種類あるようで、ひとつは土地から湧き出るエネルギー、ふたつめは人によって持ち込まれたエネルギー。
このエネルギーはその場所の岩などに定着するようだが、台風が来ると吹き飛ばされその場のエネルギーはリセットされるようだ。
大昔、ウタキの場所を探し定めた人々は、エネルギーがリセットされない場所――たとえば風の通らない洞窟の奥深くなどは、聖地として不適と考えたのではないだろうか。
つまり、「定期的にエネルギーがリセットされること」こそが、ウタキの絶対条件だったように思えてならない。
なぜリセットが必要なのか。
エネルギーは、最初は「光の粒」のように軽やかに飛び散るものだが、古くなると「コールタール」のようにべっとりとこびり付き、離れなくなってしまうからだ。
これは人間にとっても同じことが言える。人についた外部のエネルギーも、古くなるほど剥がれにくくなり、やがてコールタール化していく。
だから人もやれパワーだ、と言ってエネルギーを手放さずため込むのはよくない。
またそのエネルギーは人の感情を変化させ性格まで変える危険がある。
つまりノーマルな自分ではなくなる。なのでやはり人もエネルギーをリセットする必要がある。
私自身の考えだが人は外部からエネルギーを取り込む必要などなく、自分自身から湧き出るエネルギーだけで十分なはずだ。だからやれパワースポットに行くと言い、ましてや誰が落としたかわからないエネルギーまでも貰ってくるのはよくない。危険だと思う。
また祈るときにもその貰ってきたエネルギーは邪魔になるだろう。
素の自分によって行われる祈りだからよいのだ。
エネルギーによって変に感情を高ぶらせて行うものではないのである。
エネルギーは人の性格を変えてしまう。そのせいで自分は強くなったと思うかもしれないが、それに依存すれば支配されてしまう。そんな人生は嫌なはずだ。
日々、自分にこびりついた余計なエネルギーをリセットし、澄んだ「素の自分」で祈り、生きること。それこそが、人間にとって最も健やかで美しい生き方なのではないだろうか。