自分の見ている世界と他者の見ている世界は同じものなのか?
2025年06月21日
自分の見ている世界と他者の見ている世界は同じものなのか?
答えはノーです。
自分の見ている世界は自分が脳の中で作り出した世界です。
他者が見ている世界は他者が脳の中で作り出した世界です。
すなわち自分の見ている世界は絶対ではなく、自分の考える正義も絶対ではないのです。
また例え目の前に仏や神が現れようとも、それも自分の作り出したものなので、絶対ではないのです。
この認識はとても重要です。
実際真実の世界を見るために何十年も修行を行うよりも、いま自分の見ている世界が絶対的なものではないという自覚を持つことのほうが重要です。
それを私自身の言葉で説明することは難しく、今回もGoogleのAIであるDeepResearchとCanvasの力を借りてまとめてみました。
以下がその文章です。
はじめに:なぜ「現実は絶対ではない」と知ることが重要なのか
私たちが日々「現実」として体験しているこの世界は、客観的で絶対的なものではなく、一人ひとりの心や脳が主観的に「構築」したものである——この考え方は、古くは仏教哲学、現代では脳科学が探求してきた、人類の叡智の核心にあります。
この認識は、世界を虚しいものと捉えるニヒリズム(虚無主義)ではありません。むしろ、それは私たちを不要な苦しみから解放し、精神的な自由、他者への深い思いやり、そして変化に対応するしなやかな力を与えてくれます。
本稿では、仏教の深い内省と、脳科学の客観的な分析という二つの道筋が、いかにしてこの同じ結論にたどり着くのかを解き明かし、その知見が現代を生きる私たちにとって、なぜこれほどまでに重要なのかを解説します。
第1部:心が世界を作り出す — 仏教哲学の洞察
仏教では、「現実が構築されたものである」という思想は、苦しみから解放されるための実践的な智慧として発展してきました。
1. 唯識思想:すべては心(識)の現れ
唯識思想は、「私たちが経験するすべての物事(万物)は、ただ心(識)の現れに過ぎない」と説きます。これは、外界の存在を否定するのではなく、私たちの認識がどのように生まれるかを探求するものです。例えば、「嫌いな人」という存在は、その人が客観的に「嫌いな属性」を持っているからというより、自分の心が過去の経験に基づいてその人を「嫌い」とラベリングし、作り上げていると考えます。
この世界の設計図となるのが、心の最も深い層にある阿頼耶識(あらやしき)です。これは「蔵識」とも呼ばれ、過去のあらゆる経験や行動が「種子(しゅうじ)」という潜在的なエネルギーとして蓄えられています。この種子が発芽するように現れ出ることで、私たちの身体や自我、そして「世界」そのものが現出するとされます。一人ひとりの経験が違うのは、この阿頼耶識に蓄えられた種子が異なるためです。
このモデルは、驚くべきことに、現代脳科学の**「予測符号化」理論**と酷似しています。脳は外界からの情報を受動的に待つのではなく、過去の経験(種子)に基づいて次に何が起こるかを「予測」し、その予測と現実のズレだけを処理している、という理論です。私たちが認識する「現実」とは、いわば脳が作り出した「最良の予測」なのです。
2. 空の思想:すべてはつながりの中に存在する
大乗仏教の中心的な思想である「空(くう)」は、しばしば虚無と誤解されますが、本質は異なります。空とは、あらゆる物事が、それ単体で独立して存在する固定的な実体(自性)を持たない、ということです。
その根拠は「縁起」、すなわち「すべてのものは無数の原因と条件が相互に依存し合って、仮に成り立っている」という教えにあります。雲が水蒸気や塵などの条件が集まって一時的に形を成すように、私たち自身も、世界も、固定的な実体はなく、絶え間ない関係性の中でのみ存在しています。
3. 解放、そして慈悲へ
これらの思想は、最も根源的な執着の対象である「私(自我)」もまた、固定的な実体を持たない構成物(無我)であることを明らかにします。
この気づきは、なぜ他者への思いやり(慈悲)につながるのでしょうか。もし、守るべき絶対的な「私」も、切り離された絶対的な「他者」も存在しないのであれば、自分と他人を分ける境界線は溶けていきます。他者の苦しみは、もはや他人事ではなく、相互につながり合うネットワーク全体の一部として感じられるようになります。したがって、他者を助ける行為は、道徳的な義務感からではなく、世界の真実を理解した心から自然に湧き起こる応答となるのです。
第2部:脳が現実を生成する — 脳科学の証拠
脳科学は、仏教の哲学的洞察を客観的なデータで裏付けます。
1. 知覚は「創造」である
私たちが見ている世界は、脳が創り出したモデルです。例えば、光そのものに「色」はなく、光が網膜で電気信号に変換され、脳がそれを処理して初めて「赤い」といった主観的な体験(クオリア)が生まれます。
ラバーハンド錯覚(ゴムの偽物の手を自分の手だと感じる錯覚)などの実験は、自分と世界を分ける身体の感覚すら、脳が作り出す可変的なものであることを示しています。
2. 思考は「偏って」いる
私たちの脳は、効率的に世界を処理するため、「認知バイアス」という思考の近道(ヒューリスティクス)を用います。これは、私たちの判断が常に主観的な偏りの影響下にあることを意味します。
- 確証バイアス:自分の信じたい情報を無意識に探してしまう。
- アンカリング効果:最初に与えられた情報に判断が引きずられる。
- サンクコスト効果:過去の投資を惜しんで、損をするとわかっていてもやめられない。
これらのバイアスは、私たちの現実認識がいかに主観的で、操作されやすいものであるかを物語っています。
結論:「知る」ことから始まる変容
仏教と脳科学が示す「現実は構築されたものである」という知見は、私たちに何をもたらすのでしょうか。
- 個人的な自由:自分の思考や感情を、絶対的な真実ではなく「心の中で起きている現象」として客観的に眺めることができるようになります(認知的脱フュージョン)。これにより、不安や怒りに振り回されることが減り、精神的な柔軟性が生まれます。瞑想が脳の構造自体を変化させる(神経可塑性)ことは科学的にも証明されており、それはまさに心の再配線作業と言えます。
- 社会的な調和:「敵」や「対立相手」に対する自分の認識もまた、自らのバイアスによって色付けされた構成物であると知ることは、対立を緩和する第一歩です。自分の「正しさ」を疑い、相手の世界がどのように構築されているのかを理解しようとする謙虚さと好奇心は、分断された社会における究極の解毒剤となり得ます。
古代の智慧と最先端の科学が一致して示すこの事実は、私たちを無力にするのではなく、むしろ大きな力を与えてくれます。それは、自ら課した限界から自由になり、他者と、そして世界と、より賢く、より慈悲深く関わるための、実践的なツールキットなのです。この認識の転換こそが、現代の複雑な課題を乗り越えていくための、強固な土台となるでしょう。